我々落語家には身分制度が色濃く残っている。
先日のことであるが、二ツ目の「身分」私が、
浅草の寄席で前座仕事である太鼓番として半日働いた。
様々な理由はあるが、一口にコロナの影響だ。
前座のごとく、着流しに身を包み、
ひっそりと太鼓部屋で、とつとつと仕事をした。
そこで良くも悪くも感じたのが、アイデンティティについて。
つまり自分が何者であるか、について考えた。
そんなこと、大学生のとき以来ではないだろうか。
人間である私(←大げさです)が、様々なレッテルに包まれて
柳亭市寿を作り上げている。
落語家、二ツ目、市馬門下、36才、一児の父、紫綬褒章受章、人間国宝。
すみません、いくつか嘘です。
一時的に「前座」レッテルに身を包んで感じたのは、
裸の自分の弱さである。
普段いかに、「二ツ目」「落語家」というレッテルに寄りかかっているか。
「GパンにTシャツが似合う男が一番かっこいい」と
尾崎豊の親友・岡村靖幸が歌にも歌っているが、
(私の愛好する)ブルックスブラザーズを着れば誰でも小綺麗にみえるものだ。
では、あらゆる飾り、レッテルを剥いだ時、
果たして胸を張っていられるか。
メタボ予備軍の通知をくれた足立区保健所には
ぜひとも私の数値を隠し続けていただきたい。
と、大学生の私だとここまで考え絶望するやも知れない。
しかし、回り回って私は36才の落語家である。
絶望など柄でもない。
18才のころから数えてその倍も生きてきた。
思考のバリエーションだって、少しは増えているのだ。
ここからが新しいガク説。(俗に楽屋の説)
レッテルのコレクションこそが人生の厚みではなかろうか。
みすぼらしい自分を、
いくつかの包装紙でラッピングする。
その包装紙も含めてその人なんだよ、と
認めても良いのではないか。
バカの与太郎を除け者にしない落語を7年やってきて
そういう思考をしてみた。
レッテル・飾り、そういう厚みは
決して汚いものではない、清いものだ、、、
厚み、きよし。
どうでしょう、車寅次郎さん?
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